人事異動の季節
「絶対、次期支店次長ですよ、あなたは」
お酒を飲むと記憶が・・・
お酒を飲む方なら一度や二度経験したことがある方もいると思いますが私はお酒を飲みすぎると記憶が飛び飛びになったり、ある時点から全く記憶がなくなることがしばしばあります😅。
専門用語ではブラックアウトというそうです。
例えば何人かで飲みに行って途中から記憶が全くなく気がついたらカプセルホテルで寝ていたというパターンです。翌日一緒に飲みに行ったメンバーに「昨日何件飲みに行ったっけ?支払いは誰がした?」から聞き始めて自分の失われた記憶を探るという始末です。
「酔いつぶれて寝てたで」ということであれば記憶がないのもうなずけるんですがそういうケースはたまにしかなく多くは
「二件目の店でカラオケ歌いまくってたやん。覚えてへんの?」とか「腹へったから言うて寿司屋入って寿司食べたやん」とかまあかなり酔ってたけど普通に?行動してるんです。
なぜ、覚えてないのか自分もずっと不思議に思ってたんですが、かなり前ですがネットである記事をたまたま見つけて成る程と納得しました。
どういうことかというと脳内に海馬という記憶を蓄積する部位があり、お酒を飲みすぎて海馬がアルコールで麻痺すると機能が低下し記憶が蓄積できなくなるということなんです。
言い換えれば見たいテレビドラマ録画して後で見ようと思ったらHDD レコーダーが故障してて録画されてなかったのと同じ理屈です。
いくら思い出そうと努力してもそもそも脳内に記憶されていないものを思い出せるはずはありませんよね。
ということで飲みすぎて記憶がなくなる理由は分かったのですが、これをどうやって防ぐか?答えは簡単、飲みすぎないことです。が、酒好きにはこれができないのです。若い方は知らないと思いますがまさに植木等の「スーダラ節」そのものです。
歌詞は「チョイト一杯のつもりで飲んでいつの間にやらハシゴ酒。気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これでカラダにいいわきゃないよ、分かっちゃいるけどやめられねぇ・・・」ということです。
しかしこの歌が発表されたのは1961年、いまから約60年前ですから、まあ昔からこういう酒飲みは多かったんでしょうね。
とは言え、例えば女性と飲んでて途中から記憶がないとなると翌日焦りますよね。「昨日、何か変なことしなかった?」とも聞きにくいし・・・。
それよりはもっと怖いのは新聞記事などで「電車で会社員がとなりに座ってた女子大生の太ももを触って逮捕。本人は酔ってて覚えてないと言っている。」なんていうのをよく見ますが、ほとんどが言い訳が多いと思いますが中には本当に酔って覚えてないケースもあると思うんですよ。
例えば酔ってておねーちゃんがとなりに座ってくれるお店に行ってると勘違いしてつい手を伸ばしてしまったとか・・・。
まあいずれにしてもアウトですね。しかし自分が全く覚えてないことで社会的信用を失い人生台無しにしてしまうのも哀れというか情けないですね。
というわけで私はガッツリ飲む時はタクシーで帰るかホテルに泊まるように脳にインプットされてます(笑)。
これまで酒の上での失敗は数知れずありますが幸いにも身の破滅につながるような失敗はありません。ヒャットしたことはありますが(笑)。
酒飲みの皆さん気をつけましょう!酒飲まない皆さん、酒飲みに寛容あれ!
恋愛について
亀井勝一郎著「人生の思索」より抜粋です(少し長いですが)。
結婚は恋愛の連続であるとともに終結である。
「結婚は恋愛の墓場だ」と言われる。人はしばしば結婚してから失恋するものである。それはどういうことであろうか。
それまで互いに気づかなかったさまざまの弱点に気づくということもある。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう。互いの弱点に気づくとは、互いの人間性に対して開眼させられたということである。弱点や欠陥のない人間はない。もし完全無欠な人間がいたとしたら、そのことがその人間の弱点となる。完全無欠であることによってあきるであろう。
恋愛とは美しい誤解だと言ったが、結婚とは恋愛が美しい誤解であったことへの惨憺(さんたん)たる理解である。結婚は恋愛への刑罰である。しかし、すべての人間が受けなければならない刑罰であるから、これに耐えることが必要である。人生にわがままはゆるされないのだから・・・。
そして、互いに弱点の多い人間同士として、恋愛から卒業し、人間として共同するよう心がけるべきである。それがいやなら一生を独身で送ることだ。その代わりその人は、人生に対する失恋者のような立場に置かれるだろう。
多様性を認める今の時代からすると少し古い考え方かもしれませんがどう思われますか?
この世界は夢?
インドの聖人パラマハンサ・ヨガナンダの著者「あるヨギの自叙伝」はスティーブ・ジョブズのiPadに唯一ダウンロードされてた本でまた彼はビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットに登場してるとのこと。そのパラマハンサ・ヨガナンダの講話集からの抜粋です。
「われわれは、ふつう夢を見ている間は、それが夢であることに気がつきません。目が覚めたとき、初めて夢を見ていたことを知ります。それと同様に、この人生が夢であることを知るのは、われわれが神の宇宙意識の中に目覚めたときです。」
人は人生の最後を迎え、次の世界で現世は夢だったと知るのでしょうか?
豊臣秀吉の辞世の句
「露とおち露と消えにしわが身かな浪速のことも夢のまた夢」
ただ言えることは永遠の時の流れの中で人の一生は一瞬だということですね。そういう意味からすれば人生は夢なんですかね・・・。
なんてことをふと思いながらもダラダラ過ごしてる今日この頃です。
神はあるのか
日本人はよく無宗教と言われますが受験の際に合格祈願に神社にお参りして「神頼み」したり、災難が降りかかった時に「神も仏もないのか」と思ったりします。
勿論、無宗教だからといって無神論者だとは限りません。日本人の神に対する見方というのは日本人独特の曖昧さがあると思います。
「神はあるのか」この命題に関しては「パスカルの賭けの論理」というのがあります。パスカルの定理や台風の強さを示すヘクトパスカルにその名を残すあのパスカルです。
「神は存在するか、しないか。君はどちらに賭ける?」
賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。
賭けに負けたとしても、失うものは何もない。
反対に神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けた時、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。
あなたはどちらに賭けますか?それとも、そもそも賭けには参加しませんか?
いずれにしても世俗にまみれた日常の中でたまにはこういうことも考えてみるのも必要かもしれませんね。
人生の密度
新年を迎え年齢を重ねれば重ねるほど一年が驚くほど早く過ぎていくというのは誰もが実感していることではないでしょうか。
まさに「光陰矢の如し」ですね。
それに比べ若い頃や子供の頃の一年は非常に長かったように感じますね。
このように感じるのはなぜなんでしょうか?
1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞したアレキシス・カレルの著書「人間ーこの未知なるもの」にその疑問に対する記述があります。
時間の流れを川の流れに、人生の歩みをその川の堤防に沿って歩く人に例えています。
人生の暁には人は堤防に沿って元気よく走って行く。
そして川の流れより速く走る。
昼近くになると速度が落ちてくる。
そして流れと同じ速さで歩くようになる。
夜になると人は疲れている。流れは速さを増し、人ははるか後方に取り残される。
そして遂に立ち止まり、永久に横たわる。
それでも川は容赦なく流れ続ける。
川は実際には、全然流れの速さを増してはいない。
人間の速度がだんだん遅くなるので、こういう錯覚を抱くということですね。
つまり一人一人が堤防に沿って走りながら、物理的時間という、流れ行く水を眺めているということなんですね。
一言で言えば人生の密度の違いがそう感じさせるということなんですかね。
これからは意識して密度の濃い人生を歩んでいければと思います。